〆切は増える

 〆切は増える。
 ちょっと目を離すと増えている。

     ***

 お話を書いて本にするとなったとき、私はまず同人誌即売会、つまりイベントに申し込む。イベント当日に合わせて本を発行するためだ。
 となると、自然に発生するのが〆切である。
 〆切なしで作品を完成させられる人もいるらしいけれど、私にはとてもできそうにない。生来、なまけものなのだ。
 ただのなまけものなら苦労はしないのだが、困ったことに私は生真面目ななまけものである。
 とても生真面目なので、イベントに参加して本を売るとなると、「安くはない参加費を払ってこの場にいるのだし、貴重なスペースを頂いたのだから、新刊の一冊も持参したほうがいいのではないかしら?」などと考えてしまう。
 さらに大変なことに、貴重なスペース云々は半分ほどが建前で、本当のところ私は「新刊あります!」と言いたいだけだったりする。「新刊あります!」は私の〈SNSで見かけると嬉しくなってしまうフレーズランキング〉第二位だ。
 なお第一位は「在庫潤沢」である。

     ***

 ところで、イベントには私を含めたたくさんの人が集まって本を売り、買う。
 けれど、これを書いている今はコロナウイルスが猛威を振るっていて、多くの人間が一か所に集まることはあまり推奨されていない。
 この状況をなんとか凌ぐため、あるいはこの状況と上手に共生していくため、最近増えてきたのがオンラインイベントだ。
 私が主催している「紙本祭」というオンラインイベントも、そういった試みの一つである。今でこそ未来の計画を立てられるまでに成長させてもらった紙本祭だけれど、そもそもは〆切がないと本が出ない私のために、新たな〆切を設定することが目的の企画だったのだ。
 自分のための企画がここまで大きくなったのは正直予想外だったけれど、細く長く続けていこうと決めている。
 お祭りを盛り上げるのが主催の役目だとすれば、年を経てもどこかにひっそり在るのがこのお祭りの役目であるように思うから。

 話が逸れてしまった――ともあれ、今の私にはオンラインイベントという新たな選択肢ができた。
 オンラインイベントはリアルイベントに比べて参加費が安くなる傾向にある。
 その上自宅から参加できるので、「安くはない参加費を払ってこの場にいるのだし、貴重なスペースを頂いたのだから……」という建前が崩れ、イベントという特別な場が、良くも悪くも身近になった。
 そんなオンラインイベントの参加経験を積むごとに、私は前より肩の力を抜いてイベントに臨めるようになったと感じている。
「新刊絶対出したい」の呪縛から解放されつつあるのだ。
 今や私の新刊欲は「余裕がある月のオンラインイベントに合わせて年二冊くらい出したい」くらいにまで落ち着いている。
 これで終われば平和な話なのだけれど、何事もそううまくはいかない。

 オンラインイベントにおける新刊出したい欲が落ち着いた代わり、私の中には、「リアルイベントなら絶対絶対絶対新刊出したい」という新たな欲望が生まれてしまったのだ。
 だって仕方がないじゃない。リアル会場でのイベントはこの先しばらく、どうしても厳選して参加することになるし……だからこそ参加させて頂いたリアルイベントは新刊で祝福したいし……。
 私はどうも新刊のことを、めでたいハレの日を彩る祝いの品の一種だと思っている節があるようだ。

 ハレの日に新刊は欠かせない。
 だが、これが地獄の始まりである。

 新刊はめでたい品であるので、これを欠いてイベントに出席はしたくない。
 これは世論ではなく私の思想であるため、うっかり新刊を落とすと、イベントを心から楽しめなくなってしまう。
 好きでやっていることだから、自分に背くのが何より辛いのだ。
 となれば、自分で決めたイベント合わせ新刊の〆切は、何があっても動かせない。

 そもそも本を出すというのは、それなりに時間や体力を使う行為だ。
 本だけ作って生きていければいいのだけれど、人間なのでそうも言っていられない。
 食事、散歩、仕事、睡眠、やることは山ほどある。
 だからこそ、〆切と制作スケジュールは余裕を持って組む。
 だというのに、この〆切というもの、とかく増えがちなのだ。
 しかも、私がココと定めていないところに限って、ポコポコと増えていく。
 私の決意や熱意、新刊の制作に向けた完璧で余裕のあるスケジュールなどお構いなしである。

 ただ、〆切だって無闇矢鱈に増えているわけではない。
 たんぽぽが日の当たる場所で葉をぐっと広げるように、苔が適度な湿りけの中で膨らむように――〆切にも、特に増えやすい環境というものがあるのだ。

     ***

 考えるに、〆切が増えやすい環境の一つに「創作仲間との雑談中」が挙げられる。
 私はありがたいことに、ジャンルは違えど本を出すことが好きな友人に恵まれている。
 皆それぞれ、それなりに離れた場所で暮らしていて、かつそれぞれに〆切を抱えているものだから、会うのはオンラインのボイスチャットで――となることが多い。
 コロナ禍以前からずっとそうだった。
 そうやってオンラインでよく会う友人達の中でも、お勤めの形態が似ているのかタイミングが合いやすい友人の一人に、チサちゃん(仮名)という子がいる。
 彼女は絵を描く人で、仕事のかたわら漫画の同人誌を出したり、フライヤーのデザインをしたりしていると聞く。
 小説を書く私とはまったく異なるところで活動している人なのだけれど、我々には呪わしい共通点がある。
 どちらも、『イベントとなると新刊を出したくてたまらなくなる病』を患っているのだ。

     ***

 さて、雑談には近況報告がつきものである。
 ある日、私とチサちゃんはそれぞれに作業をしながら、ボイスチャットでとりとめのない雑談に興じていた。
 やがて、私は彼女に訊ねたのだ。
「そういえば、最近何描いてんの?」と。
 すると彼女は、やや誇らしげにこう答えた。
「次のイベントの原稿してる」

 今考えれば、「誇らしげ」というのは私の思い込だろう。
 まず、彼女がイベントの原稿をしているのは別に珍しいことではない。
 仕事がとんでもなく忙しいときを除けば、彼女は大抵なんらかの原稿をしているか、絵を描くかしているのだ。
 また聞けば、当時の彼女はとあるイベントに向けて複数の〆切を抱えており、そのうちの一つが目前に迫っていた。誇らしげな顔をする余裕などなかっただろう。
 〆切に追われ、画面の向こうでひいこら言っていたはずなのだ。
 大変だなあと感心こそすれ、羨む要素は皆無である。
 だが運の悪いことに、このときの私は偶然にも、イベント用の〆切をを抱えていなかった。ちょうど別のイベントを終えたところで、次の〆切は半年以上先だったのだ。
 だから、彼女のことがなんだか羨ましくなってしまった。
 私も原稿したいな――そんな思いがむくむくと湧き上がる。
 この衝動をどうしよう?
 簡単な話だ。半年後に開催されるイベントで出す予定の新刊に着手すればいい。
 なのに私の口は、反射的にこう動いていた。
「いいね、イベントいつ?」
 チサちゃんは答える。
「〇月だから、あと四か月。まだ申し込めるよ」

 え、マジで?

 教えてもらったイベント名でネット検索すると、確かにまだギリギリ申し込める。
 イベントに申し込むと新刊が出る。
 何故なら必ず出すからだ。
 出さないと、とんでもなくみじめな思いをすることになる。だから出す。本は出る。
 イベントに申し込むことが、新たな新刊を手に入れるための唯一絶対、かつ最短の道なのだ。
 幸い、次の〆切までまだ間がある。
 ごく薄い短編集なら……いける、か?
「いける、か?」なんて誰にともなくお伺いを立てておきながら、私の右手ははすでにサークルカットのテンプレートをダウンロードしている。
 新刊の制作に向けた完璧で余裕のあるスケジュールが、新刊欲に負けた瞬間である。

 だって「新刊あります!」を半年以上叫べないなんて辛くない? 辛いよね、わかるよ。だから大丈夫。これは発生するべくして発生した新刊。だって次の〆切は半年以上先なんだもの。短編集だからWEBに上げっぱなしにしてたアレを再録して、それの続編を書き下ろして――。

 ほくほく顔で手帳に新たな新刊の制作スケジュールを記入する私。
 その脳内で、もう一人の冷静な私が言う。
「四か月後の〆切を追加するってことは、先にスケジューリングしてた新刊の制作時間が半分になるってことだぞ! 分かってるのか!?」
 その間、ほくほく顔の私はといえば、手帳に貼る〈〆切!〉シールを探して机の引き出しを漁っていた。
 ほくほく顔氏のつれない態度に、冷静氏はますますヒートアップする。「だめだめだめ、本当に良くないと思うそういうのは」
 シールを無事発見して手帳に貼ったほくほく顔氏は、次いで棚からごついボックスファイルを取り出した。
 このボックスファイルには様々な印刷所から取り寄せた、紙と印刷見本がまとめられている。ほくほく顔氏の宝物である。
「あーっ!」ついに冷静氏が冷静さに欠ける悲鳴を上げた。

「印刷見本じゃなくて手帳をよく見ろ! 〆切が増えている!」

     ***

 こんなこともあった。
 また別の、小説を書く友人とボイスチャットをしていたときのこと。
 本を作る際は、いつも特殊紙に単色刷りのシンプル&スタイリッシュな表紙を好む彼女――伊勢さん(仮名)が、ぽつりとこう言った。
「次の新刊、A社で刷ろうと思ってるんだよね」
 A社というのは、フルカラー印刷のクオリティがとても高いがお値段も相応に高い、同人誌を作る人間なら一度は憧れる印刷所だ。
 伊勢さん、次の表紙はフルカラーなのだろうか? いや、だとしても驚きだ。何故なら彼女には、B社という推しの印刷所がある。
 あんなにB社を推していたのに、何かあったのか? 納品トラブルとか? いやB社に限ってそんなことは――。
 滅多なことでは発注先を変えない彼女の突然の心変わりに、私は大いに動揺した。
 私もB社のことは憎からず思っていたし、何より彼女との距離がぐっと空いてしまったような気がしたのだ。
 同人誌を作る人間なら、一度は憧れるあのA社に……伊勢さん、ついに行ってしまうのか? 私を置いて?
 いや、同人誌に置いて行くも行かないもない。きっと彼女には、A社でやりたいことがあるのだろう。
 ちょっぴり寂しいのは本当だけれど、だとしても私は、彼女の新たな門出を祝福したい。勇気を持って、憧れの印刷所へと大きな一歩を踏み出した彼女を――。

 パソコンの画面に向かって穏やかな笑顔を向けた私のことなど知る由もなく、彼女は続けた。
「A社で今フェアやってて、箔押しで〇部以上刷るとB社より安いんだよね」
「え?」
 同時に、ポロンとテキストチャットの通知音が響く。見れば、彼女から何かのURLが送られてきたようだ。
 WEBリンクになっていることを示す青い文字列に触れると、開かれたのはA社の見積フォームだった。
 すでに必要事項は埋められており、計算も済んでいる。
 なんだか肩透かしを食らった思いで、私は渡された見積に上から目を通していった。
 本のページ数、サイズ、部数、特殊加工――。

 余談だが、同人誌の印刷部数を他人に明かすのは、よほどのことがない限りやめたほうがいい。
 伊勢さんと私はリアルの知り合いで、執筆分野が全く異なっており、かつ互いが互いの書くものにまったく興味を持っていない。そういう間柄だからこそ、こういう雑なやりとりが成立していることをお断りしておきたいのだ。
 加えて私と彼女のような雑な関係性であっても、「〇部〝以上〟刷ると安い」と正確な部数は濁す。
 濁す理由は様々あるが、ざっくり言えば互いのプライバシーを守るためであり、妙な第三者に茶々を入れられないためである。
 印刷会社や紙に詳しい人は多い。詳しくなくとも、大抵の情報はネットから入手できる。
 ひとたび部数が表に出れば、明かしたくもない様々なことが芋づる式に明るみに出てしまうのだ。
 同人誌の印刷部数というのは、かくも繊細な情報なのである。

 それはさておき、A社の見積だ。
「確かに安いね。てかフェアの割引率ヤバ……」これ、利益回収できているのだろうか? 余計な心配とともに、思わず感嘆が漏れる。
 とはいえ、A社はハイクオリティ&最高のホスピタリティと引きかえに、何もかもがほんの少しお高い印刷所だ。
 印刷費は安くても送料合わせたらそうでもなかったり、納期がすごく早かったりするんじゃないんですか?
 そう思った私は、配送料について書かれているページに飛んだ。
 へえ、送り先が一か所なら配送料無料。意外とフツーなんだ。もっと高いイメージだった。
 決めつけは良くないなと反省しつつ、次はフェアの詳細ページに飛ぶ。
 納期は……えっ納期のプラス日数こんだけでいいんだ?
 ってことは通常納期が〇日だから――ああ、なるほど。なるほどなるほど、なるほどね。
 最高のホスピタリティはここにも発揮されていた。

 そしてこの箔押しフェア、どうやら料金一律でB5サイズ全面押しができるらしい。料金計算が楽でイイですね――待って全面? 思わずディスプレイを凝視する。
 多くの場合、箔押し加工というものは、加工をほどこす面積に応じて料金が変わるものだ。
 印刷所によって多少異なるが、最小単位は十センチ×十センチほどであることが多いのではないだろうか。
 無論、面積を広げれば広げるほどに加工料金は高くなる。
 そんなお金のかかる特殊加工を、B5サイズ全面に――そんなお大尽遊びがあっていいのか。
 そんなの料金の試算をしようと思ったことすらなく、いったい幾らになるのか想像もつかない。まさに貴族の御戯れである。
 それをフェアだからとこの価格で……おお、ピカピカ……。

いやまあ、とはいえ。
とはいえだ。

 私が主宰しているのは小説サークル、しかも少部数で細々とやっている個人サークルだ。いくら箔押しが激安といっても、うちのサークルの本にそれは必要か?
 これまで出してきた本の表紙デザインを振り返るに、箔押しするとしてもせいぜいタイトルだけとか、サークルロゴだけとか……いや、せっかく箔の面積制限がほぼ無いのだから、いっそ表紙は特大フォントのタイトルだけを画面いっぱいに配置して、サークルロゴは裏面に、しかも紙と馴染んではっきり見えないようなインクで刷ってもらうのがいいかもしれない。

 ならば表紙は少し広めにとったほうが、箔が映える。いつもはA6文庫サイズで刷っているけれど、今回はB6コミックサイズでひと回り大きくしよう。ページ数はとりあえず百。表紙の紙はフェア指定のものがあるからそれで――手元の見積フォームに、ポチポチと情報を入力していく。
 すると、とある項目で手が止まってしまった。納品予定日である。
 ここを埋めないと見積は出せない。直近で本出せそうなイベントあったかな?
 最近よくお世話になっているオンライン即売会サービスでイベントを検索し、クレジットカードで参加費を決済。これで納品予定日が決まった。
「あれ?」
 脳内で冷静な私が首を傾げる。
「〆切増えてない?」

 そのとき、ピロン、と軽い電子音が耳に入った。
 ずっとほったらかしにしてしまっていた伊勢さんからのチャットかと思ったけれど、我々のボイスチャットはいつも作業の相互監視を兼ねているため、十分や二〇分の沈黙は日常だ。なにより音が違う。鳴ったのは私のスマホだった。
 見れば、スマホの通知画面は、クレジットカードの決済会社から決済完了のメールが届いたことを示している。
 ここまでくると、さすがに私も認めざるをえない。
 今まさに、〆切が増えんとしている。

 冷静氏が言う。「既刊だけで参加すればよくない? オンラインイベントでの新刊欲は落ち着いたってさっき言ってたじゃん」
 それはそうだけど、せっかくのフェアだし……。言いよどむ私に冷静氏が畳みかけた。「イベントまでは五か月あるけど、フェアの〆切は二か月後だよ。そんな短期間でゼロから新作が書ける? 無理でしょ実際。それにちょっと前に、『初めての箔押し本はぶ厚いやつがいい』って言ってなかった?」

 そういえば、冷静なときにそんなことを言っていたような気がする。
 なんだか無理してフェアを使わなくても良いような気がしてきた。「そうそう」〆切まではあと五か月あるわけだし――「そうなんだよ」五か月あれば前に練ってたあのネタで中編を仕上げられるような気がするし――「ん?」フェアを使わないとしても、B6サイズの表紙ってのは一度やってみたいよね。
 ページあたりの面積が広くなるから、ちょっとした挿絵みたいなものを入れたい。
 章の扉にワンポイントイラストが入ってるの、可愛いと思ってたんだよなあ。
 本文用紙はざらついた嵩高な紙も捨てがたいけど、「ちょっとちょっと、」長文読んでもらうならやっぱり書籍用紙か? まあこのあたりはざっくり概要とネタを詰めて、おおよそのページ数が決まってからの相談で。
 ページ数っていえばこないだ読んだ吉田篤弘さんの『圏外へ』って本がとても面白くて。見るからに分厚いのに、最後まで手が止められなかったんだよね。しかも後で調べたら、全部で五百ページもあってさ。文庫版も出てるというから調べたら、文庫だとなんと六百ページを超えるらしい。六百ページ超えの本を作る機会はなかなかないだろうけれど――「こらーっ!」
 冷静氏が手帳を取り出す。
「よく見て! やっぱり〆切が増えている!」
 シメキリ……?
「やったー!」
 僅かに残っていた理性を吹き飛ばし、ほくほく顔氏が駆けてきた。
 冷静氏から手帳を奪い取り、増えたばかりの〆切を書き込んで快哉を叫ぶ。

「〆切が増えている!」

     ***

 思うに創作をする人間の中には、それを華麗にエスコートできているか否かに関わらず、進んで〆切と踊りたがるものがいる。私だ。
 別に本など出さなくても死にはしない。むしろ本を出すと決めたことによって、死ぬほど辛い目に遭ったことのほうが多い。
 それなのに私は、脳内のほくほく顔氏になかなか勝てない。
 私はとても視力が低くて眼鏡なしでは生活できないのに、ほくほく顔氏は目が良く足も早い。私の周りにほんの少しでも〆切の影がちらつくと、どんなに遠くからでも全速力で駆け寄ってくる。
 〆切の影を実体化させ、手帳に書き込ませるためである。

「もはや〆切がどうこうというより、手帳に何か書きたいだけなんじゃないのか?」
 冷静氏がたまに零す呟きに、私は未だはっきりとした言葉を返せずにいる。

     ***

 ほくほく顔氏が狙っているのは、創作仲間との雑談中だけではない。
 脱稿した直後は、更に気をつけたほうがいい。
 脱稿する。すると〆切が増える。
 改めて文字にすると意味が分からないが、事実なのでこう書くしかない。
 もう少し解きほぐしてみよう。

 脱稿すると、それまで小説を書くために脳内で稼働し続けていたすべてが一斉に停止する。すると脳内を稼働させるために使い続けていたエネルギーと感情が行き場をなくして全身から流れ出る。
 流れ出たものは作品を完成させた喜びという形を取ったり、自分との約束を最後まで守り切った達成感という形を取ったりする。
 ポジティブな感情が尽きることなく湧き上がり、全能感が脳をひたひたにするのだ。
 今SNSを開いたら「脱稿しました! 新刊あります!」と呟ける――その事実に震えるほど興奮する。
 新刊あります。新刊あります!
 あまりの興奮に、すぐSNSを開くのはもったいないような気がしてきた。
 いったんスマホから手を離し、パソコンデスクからも離れる。
 台所でいつもは使わない硝子のコップをわざわざ取り出し、水道水で満たす。
 ひと息に飲み、大きく息を吐く。
 清らかな水が全身に脱稿を運んでくれる。

 いやあ脱稿したナア!

 パソコンの前に戻った私は、いつものテキストファイルを開こうとしてはっとした。
 ああそうだ、もうあのファイルは更新しなくてもいいんだった。
 私の作品は今日、私の手を離れたのだ。
 それは喜ばしいことで、誇らしいことだ。でもほんの少し、一抹のさみしさが胸を掠め――。
 そのとき、私の肩を叩くものがあった。
「さみしくないよ」
 ほくほく顔氏だ。
 ブルーブラックのインクがたっぷり注入された万年筆と手帳を私に手渡し、優しく微笑みかける。
「〆切を増やせばさみしくないよ。また原稿ができるよ」
 えっ――。
 とんでもない甘言に、私は思わず冷静氏の様子を伺った。
 冷静氏は『イベントまでにやることリスト』とにらめっこしている最中だった。
 イベント当日に合わせて本を作っているので、脱稿したらそれで終わりとはいかない。本の宣伝やらイベント参加の告知やら……イベント当日まで、やることは山ほどあるのだ。
 リストから目を離さずに、冷静氏は言う。
「まあ〆切が増えれば原稿はするよね。それはそう」
 おざなりな言葉。冷静氏はまだまだ忙しいのだ。
 だから次の〆切を設定するなら、イベント翌月から数えて三か月、できれば半年くらいはほしい。今はネタのストックがあるから、三か月あればなんとかなるような気がする。さっき飲んだ水道水に乗って全身を巡る良質な全能感がそう言っている。
 パソコンでオンラインイベントのサイトを開き、日付指定をしてイベントを検索する。めぼしいイベントは――。

     ***

 ほくほく顔氏に導かれ、今日も〆切は増える。
 そして、増えてしまったものは、粛々と片付けてゆくしかないのである。

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